機動戦士ガンダム00 2nd season 第14話「歌が聞こえる」

先ほど晩飯がてら見ていたガンダムが面白かったので、その観想をUPしてみようかと思います。
クライマックスの、宿敵であるキャラを主人公が討ち取ろうとするその瞬間に思い留まると言うのは他作品でも繰り返し用いられてきたパターンでしたが、そこで影の薄かったヒロインが再浮上してきたのは面白かったですねぇ。それまでの無力振りが気の毒なくらいだっただけに、ファンタジー的ガジェットのお陰とはいえキャラクターの持たされている方向性をそっくりそのままで話の流れを転換させる機能を果たせた事で、物凄く印象的なシーンになった様に思います。
ここで再びクローズアップされた00ライザーの思考伝播機能。最初のお披露目の時はハダカ空気椅子機能に目を奪われたりした訳ですが(苦笑)、今考えるとアレは当人の皮膚感覚が周囲に伝わっていたと解釈できなくもないなぁ、とか思ったりします。
まぁそういうのは兎も角として、本来なら人の頭蓋の中に封じ込められていて伝えるのに一苦労も二苦労もする主観が他の人間にダイレクトに届いてしまう、と言う仕組みを使って凡人にもニュータイプの真似事が出来てしまうと言うのが新たな展開を期待させてくれるのでちょっとwktk。
それからこの機能のお陰で主人公の狼狽、と言うか動揺振りも「さもありなん」と納得させられてしまいました。この辺が先の期待感に繋がるのですが、それまで主人公を突き動かしてた使命感や復讐心というもの、傭兵の駆るMSを刺し貫こうとする瞬間は恐らく復讐心の方が強かったのではないかと思うのですが、この復讐心と言うものはある意味で
「あいつが悪い」
「自分は被害者」
と言う所にだけ目を向け、そこを動かさない様にする思考停止とも言えそうな側面を含むため、それと正反対な思考や感情が流し込まれると主人公のように固まってしまってもおかしくないんじゃないかと言う気もするんですよね。なにしろ彼らの活動は「戦争根絶のための戦争」と言う矛盾に満ちたものである以上、戦い続けるには自分の抱える矛盾を見ないようにしようと言う不断の努力が要る筈なんです。大勢の人間が集まっていると必ずその矛盾を指摘するのが表れてしまいますからまず実を結べない類の努力なんですが、10人にも満たない人数で固まってると結構これが確固たるものを結んでしまうんでしょうね。
何が何でも(他人の掌で踊らされてたと知っても)ひたすら突っ走ってきた主人公がよりによって肝心の瞬間でフリーズする程の衝撃を受けたというのは、ダイレクトに伝わってきた歌の内容や歌ってる人間の感情が主人公のものとあまりにかけ離れていたと言うより、むしろ見ない様に避けてきたものだったのではないか、と思う訳です。他を圧倒する性能の兵器を持つ彼らにしても多分、あの人数で世界を敵に回すのは荷が重い話の筈です。そんな事を延々続けてる間に知らず知らずのうちに絶望といったら良いのか、心に歪みが溜まってしまうんじゃないかと。もう自分達は一生平穏な暮らしとは縁が無いんじゃないかと言う気持ちになってしまうのじゃないかと。TV版で語られる時代以前にもあの組織から死傷者が出ていると言う事がチラッと仄めかされてますし、1stシーズン終盤でも身近な人間の死を見てきている訳です。そんな彼らにある種の疲労と言うか、絶望的なものが蓄積されない筈が無いんです。特に、その否定し難いものをあえて見ない様に努めていないと前に進めないのが00を駆る主人公ではないかと。
そこにただひたすら純粋な「平穏な日常が失われた悲しみ」だったり「楽しかった頃の思い出」だったり「両親への思慕」だったり「未来への希望」だったりが流し込まれると、心の傷の一つ一つに染込む様なものが湧き上がってくるんじゃないかと思いますね。もうむちゃくちゃ激痛を感じててもおかしくないだろうと。
そういうものを想像させられただけに、あの歌がエンディング曲として使われた演出は私の心を鷲掴み、イヤ鷹掴みだった訳ですよ!<それが落ちかい

明けましておめでとう御座います

今年も宜しくお願いします。去年はブログを始めた途端に悶着を起こしたりして大変だったので、今年は気を引き締めていきたいな〜、と。

明け方、年賀状が足りなくなってコンビニへ走ったら入口にもたれかかるようにして野良猫が寝てました。寒風吹きすさぶ中でよく寝てられるものだと、軽く感動したり。この子にしてみれば寒さより食いっぱぐれる方が余程堪えるって事なんでしょうか?確かにとても人懐っこい子なので、立ち寄った女子学生はこぞって餌を上げてしまうモヨウ。お陰で少し肥満気味です。
私が傍を通りかかっても逃げるどころか「ムニャムニャもう食えないよ」てな感じの寝言をつぶやいてました。写真のフレームから外れてますが近くにはなにやらフードの載った皿が・・・どうやらショップ公認になったようです。
幸あれ。寄る辺なき猫達に幸あれ。

つる〜ん

師走の忙しさにいつも買ってる模型雑誌を手にするのが遅れてしまってイマサラな話ですが、新製品コーナーでマスターグレード(以下MG)・ジムVer.2.0の写真を見て、そのあまりにシンプルな形状に思わずあっけに取られてしまいましたよ・・・(笑)
通常、架空のロボットや宇宙船のデザインと言うものは見た目のインパクトを維持する為にドンドン細かな装飾を増やし密度を上げていく方向へと一方通行の変化を続けていくものだったりします。その傾向は古いアイテムのリメイクの際にも見受けられ、「新解釈」と称して色々装飾が追加されてしまい、同じ物とは思えないくらい印象が変わっていったものでした。(例:初代ガンダムのMG版プラモデル各種)

しかし今年7月にリリースされたMGガンダムVer.2.0はその流れに逆行するかの様な、非常に装飾の少ない仕様となっていて、個人的に驚きを禁じえませんでした。実際にこれを扱った模型雑誌においても戸惑いを隠せないような書き振りでしたし・・・。
そして、そのガンダムより更に装飾の少ない、脇役ロボの典型であるジムがMG Ver.2.0フォーマットで再登場と言う訳ですから只でさえシンプルさの際立ってる前者に更に輪をかけたシンプルさに。背面なんかあまりの線の少なさにある種の野暮ったさまで醸されてる始末。先代MGジムと比較すると腰が抜けそうになります(苦笑)

しかし、これこそが初代ガンダムにおけるデザインの真髄ではないかと私は思うのです。初代ガンダム登場のモビルスーツ群を目にした時の印象が「無茶苦茶なくらいシンプル、イマドキこれで商売する気なのか?」でした。<やなガキですね(w
時代が進むに連れて感覚の鈍磨する消費者に合わせて変化していくエンタメ作品のロボットデザイン。その複雑化にもいずれ限界が来る以上は、積み上げてきた複雑性をどこかで一旦を脱ぎ捨てて方向性の変化へと乗り出す必要に迫られるのでしょう。(それが無ければ商売としては先細りが避けられないですし)思えばあの時、その大変革の瞬間を目撃していた事になるんですね・・・。今回のMGジムVer.2.0のリリースは、そんな時代の思い出を束の間、蘇らせてくれた様な気がします。

次の大変革の時に、今度はどんな方向性が打ち出されるのでしょうか?非常に興味の尽きない反面、自分の生きてるうちにそれが拝めるのか?と言う疑問も浮かんだりします。さてさて。

JSFさんからご質問、ご批判を頂きました

過ぐる12月17日に私はDr-Setonさんの日記のコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20081216/1229439139#c)に投稿したのですが、その件でJSFさんからご質問とご批判を頂いてしまいました。
わざわざエントリー(どうしてこのような思い込みが出来るのかhttp://obiekt.seesaa.net/article/111521150.html)を上げて頂いての事にこちらとしても恐縮するやらで、お返事のために私も説明のエントリーをご用意したいと思います。
以下、関係各所からの引用を交えつつ進めたいと思います。

id:dimitrygorodok氏が言う軍事ブロガーとは私の事だと思いますが(なにしろ他に取り上げている方が居ない)、dimitrygorodok氏が何を言っているのかサッパリ分かりません。
http://obiekt.seesaa.net/article/111521150.html

これはJSFさんの仰る通りで、私は彼を念頭に置いて言っていました。

話を整理するとこうですか? まず、furukatsu氏がRMA論文とは別の話で批判されている。この批判を知っているなら、RMA論文のみを取り上げる事なんて出来ない筈だ。某軍事ブロガー(JSF)がこのタイミングでfurukatsuを持ち上げるような事をするのは、なんだかなぁ(furukatsu氏を援護する目的?)、という事でしょうか。
http://obiekt.seesaa.net/article/111521150.html

これも仰る通りです。11月上旬からの田母神論文騒動に関するJSFさんのエントリー群において、件の論文が肝心な所で歴史学上の通説に反してると言う点を重視した批判をされてたのと、過去いくつもの記事においてやはり事実に基づかない言説を鋭く批判されていた事からも「誤った言説に厳しい方」との印象を私は持っておりました。
そんな時にfurukatsu氏の発言をお読みしてしまった訳です。

彼の立場であの発言はたしかに問題ですよ、それは認めます。
そして、彼の発言の内容も私は問題だと思います。

でも、かといって、デマをまきちらす権利がないわけじゃないでしょう。
彼の職務の適格性を問われるかどうかは、言論の自由、デマを飛ばす自由とは関係ない問題です。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20081111/1226411427#c1227105967

確かこの時点で田母神元空幕長はコンテストに論文を送っただけでなく、統幕学校長時代に問題の有る教育をさせていた事も明らかになってた筈。私の発言(この欄のデミトリーがそう)はそれを踏まえていた訳です。
既に放言レベルではなくなっていた田母神問題において、事を「デマを言う権利」と矮小化するような仰りように驚いてかなり興奮していってるのがお分かり頂けるかと思います。
そして最初に取り上げたコメント欄に行き着くんですが、この様な流れの中で今思うとお恥ずかしい限りですが、かなり鶏冠に来た状態になってたんですよ・・・(赤面)
そんな時に週刊オブイェクトを読みに行って、運悪く卒論のエントリーを読んでしまって、ふと「JSFさんがシートン俗物記のコメント欄の様子をご存知だったらどうなっただろう」とヨコシマな妄想を抱いてしまったんですよね。この時の文面から意味を読み取りづらいのは感情の虜になってるのが書いてるから当然でして、完全に「悪い見本or反面教師」になっちゃってますね。しかもこの寸前にはてなのIDを取得してネーム欄が変わっちゃってるので流れを追い難い事この上ないし。ですから、

「論文は論文単体で評価する」事と「論文を評価する事は無関係な議論への援護射撃である、と思い込むのは間違い」という点には変わりがありませんけれども。
http://obiekt.seesaa.net/article/111521150.html

とのご意見にはもう異を唱えるつもりは御座いません。何とも傍迷惑な話で申し訳ない限りです。本当に御免なさい。
もしまだ問題点など御座いましたら当記事のコメント欄にでもコメント頂ければ、と思います。

田母神氏への懸念

航空自衛隊の前空幕僚長の論文の内容が報道されてから、私はネットを含め色々なご意見を見聞きしてきましたし自分でもネット上でチョコチョコ私見を述べて来たのですが、個人的に田母神さんの言動で気になったのが事実を軽んじる姿勢でしょうか。
歴史学の通説に基づかない事を述べる割りには根拠が既に論破されたものだったり、「歴史教育とは自国の良かった点だけ教えるものだ」と言ってみたり。

素人の私がこんな事を言うのもなんですが、個人的には学問の各分野における通説と違う事を言っても構わないと思っています。ただし、それは十分な根拠を持っていた場合に限っての話です。確たる根拠もないのに常識に反する事を語っていては酔漢の駄法螺と大差無くなってしまいます。
今では常識化してる地動説や大陸移動説も、根拠がしっかりするまでは常識外れの法螺扱いされてた時期が有りましたし。

また、教育の場において自国に都合の好い点ばかり教えてネガティブな所には触れないと言うのも非常に勿体無く思います。侵略にせよ敗戦にせよそれが日本史上の事実ならばそこから何がしかの教訓を得ることが出来るし、もしそれが敵わなければまさしく歴史的丸損であり、自分としてはその時こそ立ち直れないくらいの落胆を感じてしまうのではないかと恐れます。
田母神さんは単純に「日本の国は悪い国だと教えて立派な日本人が育つだろうか。」と仰るけれど、本当に教えられた側が希望を失うくらい「悪い」と言うのはどういう事なんだろうかと考えた時に、過去に過ちが有ったと言うだけでそうなるんだろうか?と疑問に思いました。
生まれてから死ぬまでに一度も失敗を犯さない人はいないですが、それでは誰もが絶望に打ちひしがれて無為に暮らしているのでしょうか?そういう方も少なくはないと思いますが、挫折を経験しても立ち直る人も少なくなかったりします。その差はどこに有るのでしょうか?

個人的な経験や見聞きしてきた話から考えると、失敗の克服、とまでは行かなくてもその目処が立った辺りから随分人は変わってくる様に思います。(プロジェクトXとか、スポ根コミックとかでお馴染みのパターンw)
逆に自国の歴史上の問題点を知らずに育った場合、他所の人からは繰り返し責められてしまうのは避けられないし、自身も歴史的な失敗を重ねてしまう恐れも大きい訳で。3歩歩くうちに全て忘れられるならそれはそれで失敗続きでも幸せに生きられるのかもしれませんが、果たしてそんな人はどれだけいるのやら・・・

画像アップロードテスト


今日はやけに天気が良かったので、気まぐれに携帯のカメラで撮ってみました。
PCのモニターで確認してたら梢近くの空に怪しげな黒点が!これはひょっとして未確認飛行物体っスか?!と一瞬期待したけど、単にモニターが汚れてただけでした。OTL